フロック





「まぐれ当たり」という意味を持つ「フロック」という言葉が、競馬でもよく使われるらしい。

例えば、1997年の日本ダービーでの「フロックでも何でもない」というような実況はかなり有名だ。



2009年の春から「Yahoo!知恵袋」の競馬カテゴリに再び参加するようになったが

そこでも「フロック」という言葉を含んだ質問・回答をよく見かける。

中にはGTレース終了後に「この馬の勝利はフロックだ」と堂々と断言した上

「史上最弱の○○(レース名)馬誕生」「フロックGT馬を18頭並べて下さい」など

「フロック」「史上最弱」という言葉を駆使した質問をしつこく行う人もいる。



そんな「フロック」論者に言いたい。











フロックなんて存在しない!!!!!





「フロック」なんて存在しない


「フロック」という言葉は主に人気薄の馬が勝つなど、「実力通りの結果にならなかった時」に使われるようだ。

また、その要因として「展開が向いた」「枠が味方した」などいろんなことを熱弁してくれる。



しかし、「実力通りの結果にならない」のが「フロック」なら

競馬のレースなんてほぼ全てが「フロック」になってしまわないか?



他のスポーツでもそうだし、身の回りで起こること全てにおいて言えることだが

競馬は生き物のレースである以上、偶然性というものを排除することは不可能である。

「展開」とか「枠」とか・・・これも避けて通れない「偶然性」のひとつだ。

「実力通りの結果でない」と文句を言ったりその馬を軽蔑したりするということは

偶然性など一切ない、いわゆる「実力通りの結果」というレースを望んでいるのだろうか。

もちろん1着馬が実力通りというレースはたくさんあるが、それは1着だけの話であって

2着以下も殿まで全部実力通り・・・だなんてレースは果たしてあるだろうか。

偶然性を排除できない「競馬」というスポーツにおいて、そんなレースは果たして可能なのだろうか。

そして、2着以下でもそうなら1着だってそうだろう。

偶然性を排除できない以上、一番強い馬が必ず一番先にゴールするとは限らないはずだ。



それに、「偶然性」という避けて通れないものがあるからこそ、競馬は面白いのではないだろうか。

「実力通りの結果」が全てのレースで実現してしまえば、それはそれは面白くない競馬になってしまうだろう。

もちろん馬券は当たりまくりかもしれないが、配当は安いのばかり。



それ以前に、最初から「実力通り」が決まっているのであれば、レースなんてする必要は全くないのでは?







まだこれでは「フロックなんて存在しない」と断言できる理由として不十分かもしれない。

ここまで断言できる大きな理由は、その上「偶然性でカバーできる範囲には限界がある」ということだ。



改めて説明する必要もないかもしれないが

競馬という競技は人を乗せた馬が競走して速さを競うという、至って単純なものである。

だから、偶然性を避けて通れないとは言え、ある程度は実力で決まるようなものだと思っている。



例えば、ボルトと私が100m走(ただし直線でなく200mトラックの半周)で真剣勝負するとしよう。

ボルトにはある程度重い荷物を背負ってもらい、負担重量ゼロの私よりも外を走ってもらったとしても

絶対にボルトが勝つと断言できる!



もちろん人間と馬では違うし、人間の競走には逃げや差しがないなど大きな違いもあるが

単純なルールである以上、競馬でもある程度同じことが言えないだろうか。

明らかに弱い馬は、いくら全ての条件が揃っても勝てないと思う。

だから、展開や枠などが有利に向いて勝ったというのは、たとえ「実力通りの結果」ではなくても

立派な「実力の証」ではないだろうか。





競馬は楽しく見るべきである


もちろん競馬の楽しみ方は人それぞれだが、「フロック」という言葉を使う人間の競馬観を疑いたい。

負けた馬に文句を言うのもなかなかひどい話だが、勝った馬にケチをつけるのはあまりにもおかしな話ではないか。

最初に書いた「フロック」「史上最弱」といった言葉を駆使した質問をしつこく書く人もそうである。

結果が全ての競馬なのに、このような発想を行う人間は正直理解出来ない。

また、「最近の競馬はレベルが低い」などと言って、何かあるごとに現代の競走馬にケチをつける人なども同様だ。

このようなくだらないケチばかりつけて、競馬が楽しいのだろうかとつくづく思う。



私はたとえ納得の行かない結果になったとしても、勝った馬に文句をつけることはしたくないし

できるだけその勝ち馬の栄光を素直に認めてあげるようにしたい。

結果が全ての競馬においてこれは当然のことだと思うし、そうしないと楽しくないと思う。



(※意見には個人差があります)





「馬語りエッセイ」に戻る

トップに戻る