「僕と雷と」第8話
―降り頻る雨のもとで―
突然の雨。今にも落ちてきそうな茜色の空の下で、私は歩いていた。
今日も、透のお見舞いにいくつもりだった。
だけど、いかなかった。いや、いけなかったんだ。
ナースセンターの前。聞いてしまった何気ない会話。
―――――――聞いてないの?彼の角膜はもう、
思い出したくもない。受け止めがたいその事実に私は、驚愕の色を隠すことができなかった。
受け止めなくてはならない。しかし、受け止めることはできなかった。
それが、私の心を強く強く、締め付けることになった。
この前、透の先生と話す機会があった。私はそのことを思い出す。
「先生、透の体―――目は、大丈夫なんですか?」
「ああ、大丈夫だとも。頑張ってリハビリすれば、きっと回復するさ。まぁ、本人次第だけどね」
「そっか――。よかった・・・・・」
「でも、琴原君はとても勇敢だよ。命を投げ出す覚悟というのは、普通の人間にはできないもんだ。特に、日本人には、ね」
「私の―――私のせいなんです・・・。前をしっかり見て歩いていたら。
もし、もっと早くにトラックに気づくことが出来ていたなら、私は、透は。こんなことには――――」
「それは違いますよ、佐山さん」
「違いません!私のせい、・・・なんです」
私はすこし取り乱した。心から永遠と溢れ出る罪悪感の泉に、私はもう、溺れそうになっていた。
「佐山さん、いいですか。よく聞いてください。この事故は、あなたのせいじゃない。むしろ、あなたは逆なんです。
あなたは自らの罪悪感に、溺死しかけているようですが、駄目です。全然駄目なんです」
「いいですか、チェス盤をひっくり返しましょう。透君の気持ちを考えてみましょうよ、佐山梨恵さん」
「チェス盤をひっくり返す?将棋盤じゃなくて?」
「ああ、確かに『将棋盤をひっくり返す』のほうが一般的かもね」
先生は少し、椅子の背もたれに体を任せながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「ゲーム理論ってヤツですよ。僕の妻が、好きでね。心理学の内のひとつらしい。
その理論を妻なりに解釈したものが“チェス盤をひっくり返す”らしい。僕は、この理論にとても興味があってね」
「どのようなものなんですか?」
「なに、根底は将棋盤をひっくり返すことと変わらないよ。この理論を使って、佐山さんが今、すべきことを考えてみようよ」
「今・・・すべきこと・・・」
「ああ。じゃあ、チェス盤をひっくり返そう。もし、君が琴原君と同じ状態に陥ったとき、君は彼に何を求める?
親切な介護?彼は彼の人生を歩んでほしいと別れを切り出す?―――――それとも、君について、彼が真剣に悩み、苦しむこと?」
「・・・それは。確かに、私のしていることは彼にとってはつらいことかもしれない。
でも!こんな状態になれば、誰だって悩みます。誰だって――――――」
「佐山さん。いいですか、彼に献身的に接してあげなさい。自分を殺して、彼を救ってあげなさい。君が、そうされたようにね」
思い出される、先生の声。何が、大丈夫、だ。
先生は、私の気持ちを察して、わざと虚言を吐いたんだ。沈んでいた私の気持ちを感じ取って。
「違うよ先生、全然、違うよ」
先生はあの時、私に正直に打ち明けるべきだったのだ。
あとから、私が知ることを考慮して。
いや、違う。チェス盤をひっくり返そう。先生の意図をじっくり考えよう。
私は何かを間違っていたのではないか?
「―――――――、――!」
――――もしかして、透は知らないのではないのか。
私の口から、透に知られるのを恐れ、私にも言わなかったのではなかったのか。
そうだ。そうなのだ。私が知っちゃいけないんじゃない。透が知っちゃいけなかったんだ。
つまり、それほど透の状態は深刻なのかもしれない。
これ以上のショックを与えてはいけないような。
まるで、硝子細工のように、壊れやすいのかもしれない。
だから、私に先生は、彼の支えになってくれと、懇願したのかもしれない。
そうだ、私にすべきこと。勉強も大事だ、友達づきあいも。
でも、もっと大事なこと。今、私がしなきゃいけないこと。それは―――――
私は振り返る。濡れたアスファルトを蹴って、元の場所に駆けていく。私の、そして彼の居場所に。
「ごめんね、透」
私は進む、いくべき道を。
私は支える、彼に支えられながら。
私たちは生きていく、これからも一緒に。
第9話へと続く
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