「僕と雷と」第14話



―“あ”るもの―









蝉の声が、少しだけ耳触りだ。

廊下を車いすで、手すりを使いながらゆっくりと進む。



―――少し黙ってくれ。



視線を大雨のように大量に浴びる。

僕は目が見えないから、何人の視線なのかは分からない。

だが、それは自らのソレを失っても感じる一種の異質。



―――少し黙ってくれ。



エレベータのボタンを押してもらう。

「すいません、一階押してください」

そう、いるか分からないダレかに言う。

こんな密室なのに、視線を感じる。

手すりを握る手に、ほんの少し汗が浮かんだ。

落下する箱。その最中にも、この異質は拭い去ることができない。



―――少し黙ってくれ。



「一階ですよ」

その声が確かなら、一階である場所に着地する。

僕はなんとか箱から抜け出すと、そこには手すりもなにもない。

完全な平地。

唯一、感じることができるフローリングとおぼしきものだけが、僕が認められる存在だ。



存在することの定義ってなんだろう?そんなことを病室で考えていた。

昔の僕は視界がすべての情報だと感じていた。いや、実際には感じていた。

というよりは、感じていただろうという推測でしかないのだが。

その推測は、今の僕を見ればよく分かると思う。

現在の情報源は音と感触だ。

それだけで事象を理解することは難しい。

たとえば、レモンとオレンジの皮を二つ並べて置いても、

どちらがレモンで、どちらがオレンジなのかは僕にはさっぱりわからないだろう。

それはやはり、僕が視界に頼り切っていたからに他ならない。

僕は情報を視界に頼り、その他は情報をまとめるためには“ノイズ”でしかなかったのだ。

だから、その存在を認めるためにも、やはり必要であるのが視界なのだ。

視界がなければ僕は根本の部分でソレが存在することを認められない。

今の僕にとって、レモンなどは、すっぱい果実でしかなく、

決して黄色の皮をしたレモンであるというところまでは到達しない。

それを認めようとするのなら、他人の視界を借り、それがレモンである、と伝えてもらうしかない。

しかし、それはやはり100%ではない。

だからこそ、僕は不安だ。

考えても考えても、やはり存在を僕は認めることができない。

物事を考えるときは脳を使うというのが一般的な考え方であると思う。

だけど、僕は目で考えるモノだという結論に達した。

そうでなければ、僕は昔の様にある程度は考えれたはずなのだ。

きっと、きっと、僕の頭がうまく回らないのは視界がないからなんだ。

この病院は僕を外に出してくれない。

僕から、視界を奪ったんだ。

この病院にいるから、気が滅入って余計治療が遅れているんだ。

そうに違いない。

僕はこれから学校にも行く。

毎日理恵と一緒に登校して、ずーっと一緒に過ごそう。

独りのときは本でも読んでいよう。

まだ、本棚を組んでなかったな。まずはそれからだな。

うん、家に帰って本棚をくみ上げて、一気にそのまま掃除もしてしまおう。

きれいにした部屋で、理恵と楽しくお話をして、一緒に勉強もしよう。



――――そこまで、考えてふと気づく。

僕は、なんて幸せな生活を送っていたんだろう。

雷がきらいだとか、そんな些細なことで顔をしかめていたころが懐かしい。

ふと、目頭が熱くなる。

こんなノイズだらけの世界から、家へ帰ろう。

幸いこの病院は家から近かったはずだ。道筋も覚えている。

きっと外では、平気にで光が満ち溢れているに違いない。

まず、この包帯を解いてしまおう。

そうして、目を開けて――――大丈夫、目をあける訓練はやっていた。瞼は開くんだ。

そして、ノロノロと僕は病院を出た。



だが、外は昼間だというのに、全然光が見当たらなかった。



「はは、なんだよそれ…」

「話が違うだろ…。僕の光はどこにいったんだよ――」

「僕には、もう光をみることはできないのかな…」

「やっぱり、医者のいうことはただしいのかなー」

「…結局はどうしようもないのかなぁ」

「もう、けがが治ったって何の意味もないじゃないか…」

「目が見えなきゃ――――僕自身もいるかどうか怪しいままなのに…」

「本当は死んでいるんじゃないか?」

「本当はいないんじゃないのか?」

「全部、僕の妄想なのか?」

「そうだとしたら、僕はなんて妄想癖なんだろう…、笑っちまうよ。ったく。ふふ」

「でも、家に帰ろう」



目が見えなくても持ってきた杖と歩道の目印があればきっといけるはず。

少しずつ、ゆっくりでも、確実に進んでいこう。

そうして、僕は車いすをこぎ始めた。



辺りは、面白いぐらいに、何も聞こえない。



             ◆



そろそろ俺の体にもガタが来たようだった。

右腕が思うように動かない。

指はもうリンゴを持つこともできるか妖しいだろう。

もともと俺は、脳に障害があるらしい。

じわじわと俺の脳は縮んでいく。

最初は腕や、足といった四肢が動かなくなっていく。

そして、やがて喋ることもできなくなり、脳が死ぬ。

しかし、内臓は生きていく―――立派な植物人間の出来上がりだ。



眠るように死ぬ、のではなく、完全に醒めることのない夢を見続けることになる。といった感じだろうか。

結局、死ぬのには変わりない。

だから今は―――眠るのも惜しい。





「さすがに静かだな」



人のまばらなナースステーション。

完全に眠りに就いた病棟。

その静寂は、一種の奇妙さからか非常に恐ろしい。



ベンチに腰をかけ、左手と脚を使い缶コーヒーをあける。

冷え切った缶コーヒーの匂いは、ソレを全く生かし切れていない。

しかし、これはコーヒー以外の何物でもなく、それはつまり未来の自分と重なる部分だった。

この病棟もこの缶コーヒーも

――――いや、コーヒーや夜を塗りつぶすこの黒こそが、やはり銀治という人物とひどく重なる。



「ゆっくりと沈んでいく、底抜けの静けさ、ねぇ」



―――――ィ



音がする。それはノイズでしかない。

この静寂を乱す、その波紋。揺れる音の振動。

どれをとっても、それは俺には耳障りだった。



―――――キィ



車輪か何かが軋む音だろうか。ゆっくりとこちらへと向かってくる。

幽霊か何かだろうか。

病院なら別に珍しくはない。特に、この場所では。



―――――キィ、キィ



囚人服のような服装のその人物は俺にすら見覚えがある人物だった。



「―――透?」



聞こえないようにボソっと呟く。

とにかく、彼がいる。

いつもなら寝ているだろう時間帯。



……いや、寝ていたのか?

俺はこの時間帯は起きてはいるが、不眠の患者というのも何人か見てきた。

そういった類なのかもしれない。

それとも、常に光が差し込まない生活となるとやはり、昼夜というものは、彼にはないのかもしれない。

それは、診察時間や食事のときで判断するしかなく、診察やリハビリの時間もまちちだと彼は笑っていた。

それに、目の見えない食事となると、どれが朝食で、夕食なのか、判断しづらいというのもあるだろう。

すると彼は今、“やけに静かな昼下がり”を体験しているのかもしれない。

それは不安でしかたないことだと思う。

特に院内では、気温の調整や、湿度なども完璧だ。

だから、彼には常に昼であったり、はたまた常に夜であるのかもしれない。



よくある話だ、水滴を額に落とし続けると気が狂ってしまうという話や、

自爆テロをする人は、地面を掘り起こし、それを埋めるという動作を繰り返す。

その単純な動作で、心が壊れてしまうのだ。

繰り返される日常。

それに安心感を抱くのは、些細な変化があってのこと。

そして、彼には何かしら毎日楽しいことがあったのだろう。

それを奪われ、さらに昼夜の区別も出来ないような生活は、確かに苦痛以外の何物でもないだろう。



「すいません」



声が響く。

車いすの青年が、誰もいない空間に喋りかける。

その光景は、空しくてツラい。あるいは、恐怖を与えるモノだった。

消灯時間を過ぎてしまっているのだからなおさらだ。

それはもはや、人間に対する恐怖ではなく、畏怖という別の生物に対する憎悪に近いのかもしれない。

昔見た、聴覚が不自由な女性と同じだ。

あの女性は、後ろで男二人が殴り合いをしているのにもかかわらず、

振り返ることは勿論、肩に飛んだ血液が付着しても気付かなかった

―――いや、気付けなかったのだ。



あの時思い知ったことを俺は今日また思い知ることになった

―――障害を持つということは、死ぬということよりも、ツラいのではないのかと。

それは、生活することだけでどれだけの束縛があるのかと。

やはり、障害を持つということは悲しすぎる。





俺は缶コーヒーを飲みきると、透の横に立つ。

気配を察したのか、彼はもう一度言う。

当然、彼の視線は俺のほうを向かない。



「すいません、一階押してください」



僕は、何もしゃべらずにただ、一階を押し、なんとなくそのままエレベータで降りた。



「一階ですよ」



それだけを教え、彼は軽く会釈をしてエレベータ内から下りた。

そのぎこちない動きに、手伝おうかとも思ったのだが、なんとなく気がひけた。

彼がどこに行こうというのかは俺には分からない。

しかし、それは彼にとってなにかしらのスパイスとなるだろう。

脱走という言葉が脳裏に浮かぶが、それもいいと思う。

この時間だと車もそういないし、ここは田舎だ。

一日に一台しか車が通らない道路もあるくらいだ。

しかも、それはトラクターだったりする。



そんな田舎に、このような大規模な病院を建てる意図は、やはりこの“お情け部屋”なのだろう。



のびのびとした生活で、生きる喜びを持ち寿命が延びるという話は聞いたことがある。

あるいは、尊厳死の選択をした人間が輸送されてきたりもする。

ここは、気持ちよく死ねる、一種の樹海なのだ。

自殺の名所と、病死の名所。

延命治療を断った人間が渡ってくる病院。

そこが“お情け部屋”。

それは、患者のために創られた文字通り、最後の砦なんだろう。

まさしく、人間によって創られた自殺の名所という言葉がお似合いだ。





透が杖を器用に使いながら出口へと向かう。

基本的にここのドアは常に開放されている。

気が滅入った人が散歩などをしやすいように、という配慮だと婦長から聞いたが、

俺にとっては甚だ疑問なシステムだ。



透が、入口から出ていく。

俺はそれを閉まっていく扉の隙間から見送った。



扉が閉まるとそこは、闇と静寂が支配していた。

第15話へと続く



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